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八幡神と八幡信仰

「八幡様(はちまんさま)」は多くの日本人にとってなじみのある神様であると思われます。しかし、その由来はあまりよく知られていないのではないでしょうか。

八幡信仰

「八幡神社」、「八幡宮」とよばれるお社は私たちのまわりにたくさんあります。八幡社は末社まで含めると全国で四万余社を数え、八幡信仰は稲荷信仰に次ぐ大きな信仰です。宇佐神宮(大分県)がその総本社です。

宇佐神宮のホームページはこちらです。

八幡社のご祭神

ご祭神は八幡神(応神天皇)、比売神、大帯姫(神功皇后)の三神ですが、応神天皇、神功皇后、仲哀天皇(神功皇后の夫、応神天皇の父帝)の三神をご祭神としている八幡社も多く存在します。窪八幡は後者にあたります。

八幡信仰の起こり〜総本社宇佐神宮の成立〜

宇佐は国東半島の付け根に位置し、当時、大和国家の西端であったと考えられます。宇佐神宮のご祭神は八幡大神、比売大神、神功皇后の三神ですが、元々は宇佐の地に八幡神(ヤハタ神)と比売神(ヒメ神)の信仰があったと考えられています。ここに、823年に大帯姫(オオタラシ姫 = 神功皇后)が奉祀されました。その後、八幡神が神功皇后の皇子である応神天皇霊と見なされるようになったと言われます。神功皇后は新羅との戦いを指揮し、これを撃ち破ったとされる女性です。神功皇后が奉祀された背景には、当時の朝鮮との対立という社会情勢が考えられ、朝鮮に近い宇佐の地にはその緊張があり護国祈願の意味があったのではないかと考えられます。

神宮皇后は新羅との戦に際して応神天皇を身ごもっていたが、神願により出産を戦いが終わるまで延ばしたという伝承があります。

母子信仰の側面

八幡信仰は神功皇后とその皇子、応神天皇をご祭神としています。これはキリスト教におけるキリストとマリアにも見られる母子信仰の側面が八幡信仰にあるからだと考えられています。ご祭神が応神天皇、神功皇后、仲哀天皇である場合は、この母子信仰に父帝、仲哀天皇が加わることでより家族意識が拡大した結果であると考えられます。

八幡神

八幡(ハチマン)は元々は「ヤハタ」と呼ばれていたと考えられています。

・「ヤハタ」の意味

秦氏の「ハタ」、畑の「ハタ」、旗の「ハタ」などのいわれがあります。

ヤハタ神の成立については諸説あります。

・宇佐氏の氏神信仰を起源とする説

宇佐の氏族、宇佐氏の氏神を起源とする説があります。また、この根源には宇佐の自然崇拝があったとも言われています。

・朝鮮を起源とする説

宇佐神宮の成立には、渡来系氏族である秦氏、辛島氏の存在が大きいと考えられています。また、朝鮮には旗を祀る信仰があったと言われています。これが「ヤハタ」神の起こりであるとも考えられています。

・シャーマニズムの側面

宇佐神宮では宮司よりも禰宜の地位が高かったと言われています。これは禰宜による託宣(シャーマニズム)が大きかったからであると考えられています。

仏教との習合

桓武天皇の御代783年に八幡神に大菩薩の称号が与えられ、最初に仏号をあたえられた神様となりました。これはその後進む神仏習合の先駆けとなりました。

八幡信仰と清和源氏

清和源氏は清和天皇の第六皇子貞純親王の子、経基王を祖とします。清和源氏は石清水八幡宮を氏神として崇敬しました。さらに、源義家が石清水八幡宮で元服して自らを八幡太郎と称したことから、清和源氏は八幡神への崇敬を篤くしたと考えられています。 甲斐源氏は八幡太郎義家の弟である、新羅三郎義光を祖とする清和源氏の一氏族です。清和源氏の氏神とされる八幡神への信仰は甲斐源氏にも受け継がれ、信虎、晴信の時代まで続いていきました。

石清水八幡宮のホームページはこちらです。

八幡神の成り立ちについては様々な説があり、ここに紹介しただけにとどまりません。

参考文献
中野幡能「八幡信仰」1985年 塙書房
飯沼賢二「八幡神とはなにか」2004年 角川書店

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